オートマタのメーカー
アレクサンドラ・ニコラ・テルードは1831年に玩具工房として創業。最初は安価なドイツ製の輸入玩具を扱っていましたが、 1840年の破産を機に、独自の大型オートマタ製作を開始します。進展する産業革命の恩恵を受け、機械技術を駆使したテルードは1849年のパリ産業博覧会では「当代きってのからくり玩具作家」と賞賛を浴び、その後の20年は万博の人気者となります。絶頂期にあっても慢心せず、膨大な特許申請を行い、常に高い水準のオートマタを作り続けました。 1871年普仏戦争が引き金となって、テルードは2度目の破産を余儀なくされ工房を閉じます。
テルード ワルツィング・カップル W260xH330xD260
ブレーズ・ボンタンは1849年に創業。若い頃から鳥の剥製技術を修得し、剥製の鳥を鳴かすことを夢見たボンタンは、本物そっくりに囀るオートマタを製作し名声を得ました。1862年には海外での人気も高まり、製品の90%までが輸出に向けられる程でした。さまざまな博覧会でメダルを獲得し、シンギング・バードにおいて随一の工房となります。1881年ブレーズはこの世を去りますが、その技は受け継がれ現在でもシンギング・バードは製作され続けています。
ジャン・マリー・ファリボアは1871年に創業。最初は煙草ケースやボトル等のオルゴール付き小物を製作していましたが、1878年のパリ万博への出展を機にオートマタ製作を手がけるようになりました。ファリボアはガラスドームの中で風景などを再現するジオラマを多く製作しましたが、19世紀も終わりになるとガラスドームの需要はなくなり、1905年まで大型のオートマタを製作するようになります。その後ショーウインドーに飾る電動式の人形を作るようになりますが、1925年、時代の流れとともに工房を閉じることになります。
機械技術者であったジャン・ルレは1866年に創業。新しい工作技術を取り入れ、からくりの世界では立ち遅れの目立った技術面を充実させ、経済面を解決し、翌年の万博で早々に銅メダルを獲得します。ルレが60歳を越した1889年、約20年間共に働いた娘婿のドゥカンをやっと認め「ルレとドゥカンの工房」と改名します。この年から広く宣伝を行い、その作品は海外にも輸出され、工房は繁栄を極めました。
時計工であったギュスターフ・ヴィシーは妻ブルジャーとともに1855年に創業。当初はお針子の妻が衣装を一手に担当しました。1878年の万博への最初の出品以来、驚くほど本物そっくりの作品が 人気となり成功を収め、作品はアメリカ、ヨーロッパ、東洋へと輸出されます。1893年には玩具製造組合の代表となり、その年の万博から審査員を務める程、19世紀の最も偉大なオートマタ作家として知られています。
時計工であったレオポルド・ランベールは、ヴィシー工房で働き職長にまで上り詰めますが、1886年に独立します。LBという夫婦の頭文字の商標が物語るように、お針子の妻ブルジョワが豪華な衣装を担当し、それが作品の魅力のひとつとなりました。彼の作品は個別受注による複雑で大型のものと、量産用の小型のものの2つに分別できます。工房は各万博で度々賞を取り繁栄を続けますが、第一次世界大戦の勃発や電動オートマタの出現により、ゼンマイで動くオートマタの需要はなく、製造中止を余儀なくされます。
ルイ・ルヌーは1886年にオートマタを製造販売していたドゥエ&ラフォーレ工房の後継者となりました。当時高価であったオートマタを多くの人に供給しようと考え、ごく一般的なサイズ(35~60cm)のオートマタをやめ、半分の大きさで、さらにからくりも簡素化した安価なオートマタを製造・販売しました。これはヴィシーやルレ・エ・ドゥカン等の著名作家の高価なオートマタに手が届かなかった消費者に受け、1925年まで年間500体のペースでオートマタの製造を続けました。
Update May 2009